舌足らずの詩人は

福地勇からあなたへ歌や病気など

「今はちょっとつらいのだ。」
と言うと
「気の持ちようだよ。」
と言う。

これは善意だ。
僕をなぐさめてくれている。

でも、それは分かっている。
むしろ、
気の持ちようだから、つらいのだ。
気が持てていればつらくないのだから。

だから、
「気の持ちようだよ。」
と言う人は、つらくない人だ。


そういう人を、
僕はとても有り難く、
同時にまた、とてもうらやましく思う。

不老不死。
太古の昔からそれは人間の夢だ。

でも僕は、
人生は苦しみの一本の綱で、
そこに喜びの結び目が
ぽつりぽつりとあるくらいに今は思っているから、
そんな苦しみが永遠に続くのかと、
考えただけでぞっとする。

八百比丘尼は不老不死の人魚の肉を食べたが、八百歳で自殺したと言う。

よくぞそこまでもったものだ。

「自然」を、人間が「守る」のだと言う。

そんなうぬぼれた話があるだろうか?
人間が、自然を守ってあげる立場にあるとでも思っているのだろうか?

確かに、
「自然」を今の様にしたほとんどの原因は人間にある。
これ程地表の景色を変えた生物は、40億年いなかっただろう。

でも、
ちょっと乱暴な言い方だけれど、
それは「自然」にとって「壊された」のだろうか?

様々な要因で、地球の環境は様々に変化してきたのだろう。
それはもちろん、人類が生まれるずうっとずうっと前から。

それを地球は、環境は、全て受け入れてきたのだ。
むしろそれが、地球の、環境の、姿なのだ。

だから、
今だってそうだ。


それじゃあ今、
人間が守ろうとしているものは何だ?

油まみれの海鵜か?
ビニール袋を食べるウミガメか?
ホッキョクグマか?
珊瑚か?
熱帯雨林か?

それは人間だ。
人間にとっての環境だ。

人間が暮らせなくなるのは困るからね。

それを人間は、
あたかも「自然」を守ってあげるかの様に言うのだ。

こんなおこがましい事はなかなかない。


そもそも「自然」と言う言葉だ。

人間と、人間の作ったもの以外を「自然」と呼ぶ。

高慢の極みの言葉ではなかろうか?

僕は「自然」が好きで、しかしあえて言うのだ。

「自然」と言う言葉を使う時の、獏とした違和感を。


近くをヒヨドリが通過する、
穏やかな秋の昼下りに。

『私どもは時々、不具な子供のやうないぢらしい心で、部屋の暗い片隅にすすり泣きをする。さういふ時、ぴつたりと肩により添ひながら、ふるへる自分の心臓の上に、やさしい手をおいてくれる乙女がある。その看護婦の乙女が詩である。』


『詩は私にとつての神祕でもなく信仰でもない。また況んや「生命がけの仕事」であつたり、「神聖なる精進の道」でもない。詩はただ私への「悲しき慰安」にすぎない。
 生活の沼地に鳴く青鷺の聲であり、月夜の葦に暗くささやく風の音である。』


こんなに的確に、詩を定義できるものだろうか。


これは完全に僕と一致するから、こんな風に書かれて僕は、
打ちのめされ、歓喜に踊り、嫉妬に悶えるのだ!


これは萩原朔太郎

からたちの花と言う童謡を、
聞いたことがあるでしょう?

 からたちの花が咲いたよ
 白い白い花が咲いたよ

っていう。

これね、
ここまでしか知らないでしょう?
僕もそうでしたが、

全文はこう


  からたちの花が咲いたよ、
  白い白い花が咲いたよ。

  からたちのとげはいたいよ、
  あおいあおい針のとげだよ。

  からたちは畑(はた)の垣根よ。
  いつもいつも通る道だよ。

  からたちも秋はみのるよ、
  まろいまろい金のたまだよ。

  からたちのそばで泣いたよ、
  みんなみんなやさしかったよ。

  からたちの花が咲いたよ、
  白い白い花が咲いたよ。


ああ、
51歳のおじさんは、
もう目がおかしくなって文章もろくに書けんのですよ。

老眼と、涙で。


最初の2行しか知られてないのには理由があって、
決して決して山田耕筰さんのせいではなくて、
完全にあくせくとした人々のせいなのだけれども、
曲がゆったり過ぎて、そこまでたどり着かないのだ。


人間よ、
いつの日かこの歌を、
せめて休みの日にでも、

最初から最後まで、
噛みしめる事が出来るだろうか?

頭寒足熱と言う。
何かにつけ良いと言う。

勉強も集中してはかどる。
夜もすんなりと眠れる。

なるほど。

でも僕は、足の裏火照り性なんだよなあ。
むしろ冷やしたい。

足熱なんてしたら、
勉強も集中して出来ないし、
夜も眠れない。


一般的にっていうのは確かにあるけれど、決めつけるのは良くない。

サザンやドリカムを、日本人全員が好きであると決めつけてはいけない。
焼肉や寿司を、嫌いな人だっていっぱいいる。

もちろんこれは、負け犬の遠吠えだ。
アウトローぶって、何とか言い訳をしている。


でも世の中には、そういう人が案外たくさんいるのだ。

詩は芸術か?
と問われれば、大抵の人はよく分からぬから
「そうだ」
と答えておく。
僕もそう答えておく。

辞書で「芸術」と引くと、みな「文学」「詩」も載っているから、そうなのだろう。

音楽は芸術か?
「無論そうだ」
と人は答えるのだが、
その頭に浮かんでいるのはモーツァルトであり、ベートーヴェンである。

中にはビートルズこそ芸術だと譲らない人もあろうが、
よっぽど変わった人でない限り、ヘヴィメタルを芸術だとは言わない。



芸術。
アート。

アートと言うと、文学っぽくない。

詩はアートか?
と問わてても
「そうだ」
とはちょっと言いにくい。

日本語の良し悪し。



いつの頃からか、音楽の人をアーティストと言ったりする。

これは日本語の悪し。

ミュージシャンと呼べないような音楽の人に付けた苦肉の策。
結果、ちゃんとミュージシャンの人もジッパヒトカラゲという事になってしまった。

どうせヒトカラゲにするなら、
作家も詩人もすれば良いのだ。
みんなアーティストと呼べばいい。

ひょっとしたらその方が、詩人の世間的評価が上がるかもしれない。