ごんぎつね
悪いのはごんで
過失は十割であったと言えるでしょう
なのに兵十が罪悪感を感じるということ
何も悪いことをしていない人が
自分が悪かったのだろうかと
自分が感じるということ
ごんの臨終がとても悲しく美しく描かれ
だけど悪いのはごんのはずなのに
そして
この物語が長いこと読み継がれているということ
南吉は
この理不尽を書きたかったのでしょうか
ただ悪いのはごんであり
そのごんを殺した兵十が
しかしややもすると
悪者にさえなり得るということ
ごんぎつね
悪いのはごんで
過失は十割であったと言えるでしょう
なのに兵十が罪悪感を感じるということ
何も悪いことをしていない人が
自分が悪かったのだろうかと
自分が感じるということ
ごんの臨終がとても悲しく美しく描かれ
だけど悪いのはごんのはずなのに
そして
この物語が長いこと読み継がれているということ
南吉は
この理不尽を書きたかったのでしょうか
ただ悪いのはごんであり
そのごんを殺した兵十が
しかしややもすると
悪者にさえなり得るということ
手のひらを太陽に
これもいろいろと言われます。
ぼくらはみんな 生きている
生きているから 歌うんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから 悲しいんだ
手のひらを太陽に
すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮
ミミズだって オケラだって
アメンボだって
みんな みんな
生きているんだ
友だちなんだ
あらためて読むと、素敵です。
いろいろ言われるのはもちろん最後のひと言、
『友だちなんだ』
のところ。
ミミズやアメンボと友だちになった覚えはないし、ましてやオケラなど会ったことすらない。
『友だちなんだ』
とは。
友だちとはなにか?
友達とは。
その人のために死ねる、なんてことはないし、お金を貸せる人、ともちょっと違う。
考えて、いちばん近いのは、
『わざわざ会いに行く価値のある人』
かな。
しかし僕には、年賀状とほんのたまにメールするだけの、三十年会ってない、『友だち』と呼べる人がいる。
難しいね。
言えるのは、
僕らはみんな生きている、
ということ。
コンピューターが人間を支配するというような
SFではよくあった話が・・・
人類はいろんな画期的な発明をしてきたのは間違いないし、今の生活はそれによってなりたっている訳で、
例えば自動車とか電車とか、
まともにぶつかったら多分死ぬだろうものを、
インターネットとか、
いくらでもなんとでも使いようがあるようなものを、
火、
からなのかな、
人類は、
そういうね、
風の向くまま、気の向くまま、
聞こえは良いし、僕もそれを良いと思うのだけど、
落ち着くところに落ち着くまで、
そこそこ長い時間、
落ち着かなかったりする。
「来年も良い年になるといいですね」と偉いお坊さんがテレビで言っていた。
以前の僕なら
(来年も、というのは今年が良い年であった人が言えるのだ)
と悪態をついていた。
僕の今年は、唯一の友が死んだということにつきる。だから、来年も、とは言いづらい。
でも、あいつがこの夏に死んだことで、この夏に会えた人たちがいた。
奴が死んだのが二十年後じゃなくて、今だから、感じられることがあった。
そのことについて言えば、良かったと思う。
偉いお坊さんが、そこまで見越して言っているなら、さすが偉いお坊さんだ。
だから、僕も今年は良い年だったと言おうと思う。
そして来年も、良い年になればいいと思う。
生きているといろいろあるもので、僕は特に神さまとかのせいにしようとは思わないし、しかしいろんな神さまが、やおよろず的な、がいたっていいんじゃないか、と思う。
唯一無二の親友か死んだのだ。
それについては割愛するけれど、そういったことから立ち直るのに、時間というものは、とても大きな役割を果たすことを、知っているつもりだったけれど僕は、本当に思い知らせた。
当初は、立ち直るとか、思いつかなかったし、もとの生活に戻るなんて想像出来なかった。
四十九日、というものがあって、それを過ぎればちょっとは良くなるのかな、と期待し、待ちわびた。
それほどの日々を送っていたのだ。
四十九日の法要と、納骨、精進落としまで立ち会わせてもらって、僕は友人なのに、ずっと親族に入れてもらっていて、そして、あいつの一番の愛用のギターを譲り受け、本当は欲しい人いっぱいいただろうに、彼はロックスターだから、そのギターをうちに持って帰ってきて、ぴかぴかに磨き上げたり、なんだろう、いわゆる思い出すということとかね、そういうことをしているうちに、ああ、ひょっとしたら俺は、落ち着いたかもしれんよ、と、思ったふとした瞬間があって、それはやっぱり四十九日を迎えて、それが過ぎ去ったことによるものだろう、と、後に思った。
葬式を、型通りに粛々と進めていく。通夜、告別式、火葬、精進落とし、そのひとつひとつで、区切りを付けていく。そこからしばらく空いて四十九日。
四十九日間とはちょうどそれくらいの期間で、その四十九日目に彼は墓に入る。だからお前もそこで一区切りつけろよ、といういわゆる優しさか。
もちろんその間、全く、涙を禁じ得ない励ましや慰めや、かたじけなくもありがたい言葉を、僕は少なからず受け取った。そういったことは僕に、本物の涙を流させたし、僕の心を優しく撫でてくれた。慰めてくれた。
そういったことたちはしかし、僕を日常に連れ戻すということはしなかった。
それは心から共感し、言葉を交わしたり交わさなかったり、肩を叩きあっり叩きあわなかったり、それは僕の感情に深く作用し、その時の気持ちを、僕は生涯忘れたくないと思う。
この先、僕が生きていくという時間の中、僕があいつを思う事は少しずつ減るだろう。それは時間のこの上ない効果だと、僕は身を持って知った。それは非常にありがたい効果だ。だがしかし、忘れることとて決してない。時間にも出来ないことはある。
しかしね、僕はようやく、ほとんど完全に立ち直りつつあり、日常の生活を取り戻しつつあるのだよ。
俺はこの先、お前より楽しい人生を歩んでやろうかと企んでおるよ。なかなか大変だろうけどね。君ほど人生を謳歌した人間はそうそういまい。
まあ僕は、天国だの地獄だのないんだろうと思ってるからね、本当にこれでさらばだ。思い出などというやつは、山ほどあるがね。これがまた、いやなこと一個もないんだ。
なかなか楽しかったぜ
あるいは、
ハンデを持つ人が活躍するテレビ。
美談に見えるけど、
ハンデがあるから注目される。
ハンデがなければそこまで注目されない。
これはどうなのだろう?
つまり、これも差別となるのたろうか