舌癌の詩人は

小鳥杜夫からあなたへ歌や病気など

最近、介護を学ぶ機会があって、
つくづく、年をとる事が怖いと思った。

もちろん介護を学ぶのだから、老人の、介護されるべき悪い所ばかりを見るのだが、
それにしても、年をとる事に恐怖を覚え、絶望すら感じる。

今の日本人の平均寿命が八十何歳で、健康寿命が七十何歳で、健康寿命とは介護を必要としない歳であるから、つまりその差額の十数年の間、何らかの介護が必要という訳だ。

それが「平均」なのだ。

長生きは、人類の、生物の、当然の希望であり夢なのだ、と僕等は疑いもしない。
しかしそれが本当に幸せなのだろうか?
自分一人では生活すら出来ない。人に迷惑をかける事だってあるだろう。
それなりに楽しいこともあるだろうが、しかし・・・

なんか考えちゃうな。

四十年くらい前、医療もそれほど進歩してなくて、大人の男は大抵たばこを吸っていて、それが当たり前で、みんなだいたい七十五歳くらいで死んでいく。

その位がちょうど良いんじゃないか、と思ったりするのは、悪い事だろうか?

僕のベランダには今、朝顔があって、それは元気に育っている。

朝顔なのだから、ツルが伸びる。
そんな事はちゃんと知っているから、ちゃんと棒を立ててある。
しかし、その棒が若干短いのだ。
もっとも、さほど大きくない植木鉢だから、あんまり高い棒は立てられない。

僕の朝顔は発育が素晴らしいから、そんな棒はすぐに足りなくなってしまうだろう。
しかし僕は、そんな事もちゃんと分かっているから、植木鉢をベランダの手すりにぴったりと寄り添うように置いたのだ。
無論、棒から手すりへ巻き付いてもらうためだ。

この様に、僕は優れた先見の明と、なにより慈愛をもって、朝顔に接して来たのだ。
かくして朝顔は、何とも可憐な、少々小ぶりではあるが、紫色の美しい花を、幾つも咲かせたのである。

だがしかし僕は、ここで非情なる裏切りにあう。

僕は植木鉢を手すりにぴったりと寄り添うように置いた。
棒があんまり短かろうという、これは優しさだ。

しかし見よ、とっくに棒を超えたツルは、空中をさまよい、手すりには巻き付こうとしない。
良く見ると、ツルはツルに巻き付いているではないか。
こんなに巻き付きやすい手すりがあるにもかかわらずだ。

僕は愕然としたが、そんな事では打ちのめされない。
きっと気が付かなかったのだろう。
僕は優しく、ツルを手すりに巻き直した。

しかし翌朝、ツルはまた、空中をさまよっているではないか。

これはもう明らかに「手すりには巻き付かない」決意である。

そこで僕は「好きにすればいいさ」
と突き放しただろうか?

いいや、僕はそんなちっぽけな男ではない。
手ひどく裏切られてもなお、意志を尊重する度量を持ち合わせているのだからこそ、明日の花を楽しみにするのである。

夢があって、そこへ向かっていく姿というのは美しいものです。僕は嫉妬さえします。

声優という仕事は、とても意味深いと思います。
声は、とても重要です。それを与える仕事です。

それゆえに、こういう一面もあるのだよという事を、知っておいて欲しいのです。

ムーミンの本を読む時です。
登場人物が、しばしばあのアニメの声になるのです。
そうなると、なかなか逃れられません。
なぜ逃れたいのかと言うと、僕のムーミンはあの声ではないからです。
ミーもスニフもそうです。
もう四十年も前に見たアニメの声から逃れられないのです。

そういう事もあるのだと、頭のほんの片隅に入れておいてくれたら、でも本当に、
夢があって、そこへ向かっていく姿は、本当に美しいと思います。

 道程

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の氣魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため


こんなものを中学生が理解出来るだろうか?


確かに印象的な詩で、頭のどこかに残っている人も多いかもしれない。
それだけでも中学の教科書に載せられた意味があるとしたら、選んだ人は大したものである。
高村光太郎の詩を愛する者として、そこらへんについては少々あるが。


ここ3年位、本当にいろいろあって、何だかとても疲れちゃって、そんな時ふと、この詩が浮かんだ。

いつの間にか覚えていた詩を、声を出さずに読んだ。

涙が出た。

理解したわけでも共感したわけでもないと思うけれど、涙が出た。


どうも最近、
自分でも驚くほど、
涙腺が弱い。

宮沢賢治の話をしよう。
これはあなたに聞いて欲しい話だ。

宮沢賢治
多分日本の中で、一番有名な日本人だ。

でも何で?
教科書でしょう。あとはテレビ。「雨ニモマケズ」の乱発。

童話。
有名な幾つか。
ちゃんと読んだことはなくとも題名だけは。

でも何で?
それだけで、こんなにも。

本当に彼の童話は愛されているのだろうか?

彼の童話。
残酷で乱暴。

童話に残酷はままあるにしても、この乱暴さ。


彼は修羅だから。


「おれはひとりの修羅なのだ」


この修羅について、百万人が勝手な事を言う。

僕も言う。


彼は天才が過ぎた。

ほとばしる思いが、感情が、言葉が、
誰にも理解されない。

自分の言葉(心象スケッチ)に、なみなみならぬ自信があったはずだ。

そうでなければ、
自費で千部も刷りはない。

しかしそれは大抵の人にとって、
ほとんど異国の言葉に見えただろう。

自分の本当の仕事が分かっていて、
それをしているのに、
無視され続ける残酷。


それを彼は童話にした。


しかし、
あの心象スケッチでさえ、
「まことのことばはうしなはれ」ているのだとしたら、
彼の正体はどこにあるのだろう?
本当に、四次元か。

それはまあ、誰でもがそうであるように、彼の心の中にしかなかったのだろう。

だからそれはもはや、誰にも分からないのです。


そんな彼が死の間際に、
ただ手帳に、

こんな風に(天才として)生まれてこなければ、こんな苦悩はなかったんだ。だから、
「サウイフモノニワタシハナリタイ」
と記した、彼の気持ちを推し量ると、
僕は涙を禁じえないのだ。

僕よりはるかに重い病気の伯母がいて、その伯母がまた治療に入るという。
電話口で、あなたもがんばってね。心配してくれてありがとうね。と言われた。
ありがとうね。と何度も言われた。
そんなの、涙出ちゃうよ。
奥さんに見られるとかっこ悪いから、とてもさりげなくベランダに出た。

近くの木立ちの中で、聞いたことの無い鳥が鳴いていましてね、
そこそこ音量があり、
そのくせいい声だった。
注意深く聞いていたけど、なんの鳥か分からなかった。
しばらくして、いなくなりました。

これが、
その鳴き声が、
思い出そうとしても、思い出せない。
いい声だったはずなのに、
明確に思い出せない。


立原道造の詩も。
読んでいる時はいいなと思うのだが、後から思い出せない。
この不思議な感じ。
今日の鳥に似ている。